「或阿呆の一生」は芥川龍之介の死後*1に見つかった作品です。親友の久米正雄*2 宛ての一文から始まります。
この作品は芥川龍之介本人は『彼』として登場します。その『彼』が20歳から35歳までの出来事や、考えたこが短い話で51章あります。
文章が美しくて読んでいて気持ちいいです。その中でも特にお気に入りの章をいくつか紹介します。
四 東京
隅田川はどんより曇ってゐた。彼は走ってゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛った桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂鬱だった。が、彼はその桜に、───江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。
桜に彼自身を見出していたのは病に侵されて、自分も先はあまり長くないのかもしれない、という不安や恐怖をいつも抱えていたのが読み取れる。
五 我
彼は彼は彼の先輩と一しょに或カツフエの卓子(テーブル)に向日、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼はあまり口をきかなかった。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗ってゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗ってゐたかったから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、───神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の熱い葉をだらりと垂らしてゐた。
「我」とはどういうことなのでしょうか?「健康のためにジョギングする」ではなくて「ジョギングしたいからジョギングする」とか「将来のために勉強する」ではなくて「勉強がしたいから勉強する」ということか。行為そのものが目的の行為。うーん…。食べることですね!
八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んで行った。雨は可也(かなり)烈しかった。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂いを感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は少し妙に感動した。彼の上着のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相変(あいかわらず)鋭い火花を放ってゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、───凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかった。
特に欲しいものが無いのに架空線のが放っている火花は命に代えても欲しいって感覚がセンスを感じますね。そういう一般人にはわけのわからないセンスがあるから、たくさんの名作を残せたのでしょうね。ちなみに又吉直樹さんの芥川賞受賞作『火花』はここから来ているそうです。
十 先生
彼は大きい樫の木の下に先生*3の本を読んでゐた。樫の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動かさなかった。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、丁度平衡を保ってゐる。───彼は先生の本を読みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。……
屋外で本をんだことがないので、樫の木の下で本を読んでみよう。樫の木ってどこにあるんだろう?公園にあるのかな。
十四 結婚
彼は結婚した翌日に「来そうそう無駄遣ひをしては困る」と彼の妻*4に小言を言った。しかしそれは彼の小言というよりも彼の伯母*5の「言へ」と云ふ小言だった。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為に買って来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……嫁姑問題は芥川夫妻にもやっぱりあったのね。文さんのもかわいそうだけど、芥川も伯母に「言へ」と言われたら断れなかったんですね。黄水仙を自分のために買って来てくれた文さんにあんなことを言うのは断腸の思いだったでしょうね。
文さんがかわいそう!芥川ヒドイ!」と思う女性は多いでしょうが、芥川の状況で伯母の「言へ」を無視できる男はいないです。(涙)
二十三 彼女
或広場の前は暮れかかってゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルディングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄った。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明るい広場を歩いて行った。それは彼等には初めてだつた。彼は彼女と一しょにゐる為には何を捨てても善い気もちだつた。
彼等の自動車に乗った後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顔はかう云う時にも月の光の中にゐるようだつた。
野々口豊子*6と初めて密会している場面ですね。芥川は才能もあるし、イケメンなのですごくモテていたようです。うらやましい……いや、けしからん!!
こんなとことでしょうか。このほかにも芥川が影響されていた海外の著名人がたくさん出て来ます。まとめると、
- モーパッサン*7(作家)
- ボードレール*8(詩人)
- ストリンドベリ*9(劇作家)
- イプセン*10(劇作家)
- ショー*11(劇作家)
- トルストイ*12(作家)
- ニーチェ*13(哲学者)
- ゴングール兄弟*15(作家)
- ドストエフスキー*16(作家)
- ハウプトマン*17(作家)
- フローベール*18(作家)
- ゴッホ*19(画家)
- アナトール・フランス*20(作家)
- ルソー*21(哲学者)
- ヴォルテール*22(哲学者)
- モーツァルト*23(音楽家)
- ゲーテ*24(作家)
- フランソワ・ヴィヨン*25(詩人)
- スウィフト*26(作家)
- ゴーゴリ*27(作家)
- ラディケ*28(作家)
- コクトー*29(作家)
たくさんいます!
ちょっと病んでるけどすごく惹きこまれる作品です。
*1:1927年〈昭和2年〉7月24日未明、睡眠薬による服毒自殺
*2:芥川龍之介、松岡譲、成瀬正一らと第四次「新思潮」を創刊
*3:夏目漱石(1867年〜1916年 代表作『吾輩は猫である』名言「自分の弱点をさらけ出さずに、人から利益を受けられない。自分の弱点をさらけ出さずに、人に利益を与えられない」)
*4:塚本文 1900〜1968
*5:芥川フキ 1856~1938 芥川の伯母、実母の姉。道章の妹。幼少のとき眼を傷つけ不自由になる。生涯独身を通し、芥川の養育に当たった。
*6:鎌倉小町園という料亭の女将で、文もたびたび相談に行っていたという賢い女性でした。海軍の学校に勤務していた龍之介は佐野夫妻とともにこの料亭を利用し、龍之介と豊子との仲は文壇でも知られるようになります。「或阿呆の一生」の数箇所に見られる月の光の中にいる女性で、生活に行き詰まった龍之介は彼女に駆け落ちの相談をするが果たせませんでした。
*7:1850年〜1893年、代表作『女の一生』名言「愛国心という卵から、戦争が孵化する」
*8:1821年〜1867年、代表作『悪の華』名言「金を稼ぐ唯一の方法は、無欲になって仕事をすることだ」
*9:1849年〜1912年、代表作『死の舞踏』名言「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」
*10:1828年〜1906年、代表作『人形の家』名言「この世の中で一番強い人間とは、孤独でただ一人で立つ者なのだ」
*11:1856年〜1950年、代表作『ピグマリオン』名言「年をとったから遊ばなくなるのではない、遊ばなくなるから年をとるのだ」
*12:1828年〜1910年、代表作『戦争と平和』名言「逆境が人格を作る」
*13:1844年〜1900年、代表作『ツァラトゥストラはこう言った』名言「信仰──それは真理を知ろうとしないこと」
*14:1844年〜1896年、代表作『艶なる宴』名言「その女は地獄のほかに知らなかった。それが欠如だ」
*15:兄:1822年〜1896年、弟:1830年〜1870年、代表作『マネット・サロモン』名言「酒瓶は女よりもずっと優れた楽しみである。空になればそれでいいのだ。酒瓶は来てくれとも言わないし、お土産もねだらないし、感謝も愛も礼儀も要求しない」
*16:1821年〜1881年、代表作『罪と罰』名言「人間はどんなことにでも慣れることの出来る存在だ」
*17:1862年〜1946年、代表作『織匠』名言「利口なモノたちの中に潜む愚かさほど恐ろしいものはない」
*18:1821年〜1880年、代表作『ボヴァリー夫人』名言「成功というのは単なる結果だ。目標にするものではない」
*19:1853年〜1,890年、代表作『ひまわり』名言「あなたのインスピレーションやイマジネーションを抑えてはならない。模範の奴隷になるな」
*20:1844年〜1924年、代表作『シルヴェストル・ボナールの罪』名言「悪は必要である。もし悪が存在しなければ、善もまた存在しないことになる。悪こそ善の唯一の存在理由なのである」
*21:1712年〜1778年、代表作『社会契約論』名言「慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく」
*22:1694年〜1778年、代表作『歴史哲学』名言「真実を愛せ、ただし過ちは許せ」
*23:1756年〜1791年、代表作『レクイエム』名言「多くのことをなす近道は、一度にひとつのことだけをすることだ」
*24:1749年〜1832年、代表作『ファウスト』名言「涙と共にパンを食べたことのあるものでなければ、人生の本当の味はわからない」
*25:1431年〜1463年、代表作『遺言の歌』名言「さはれさはれ 去年(こぞ)の雪 いまは何處(いづこ)」
*26:1667年〜1745年、代表作『ガリヴァー旅行記』名言「想像力とは目に見えぬものを見る芸術である」
*27:1809年〜1852年、代表作『死せる魂』名言「海の砂のように量りしれないもの、それが人間の情熱である」
*28:1903年〜1923年、代表作『肉体の悪魔』名言「ある人たちにとって幸福なことが、他の人たちにとっては不幸なのだ」
*29:1889年〜1963年、代表作『ぼく自身あるいは困難な存在』名言「悪魔は悪しかできない故に純粋である」